市長コラム~つなぐ~ 二人の仲その後

公開日 2022年01月11日

 「福翁自伝」は福澤諭吉が晩年に書いた伝記です。若い頃登場するのが中津藩名門の武士、奥平壱岐。二人は長崎で一緒に修行、壱岐は諭吉の勉学の進歩をねたみ親の力で中津に追い返すわがまま息子として描かれています。
 その件の諭吉の言葉が強烈なので、明治以降の二人の関係が気にかかっていたところ、前慶應義塾長の長谷山彰さんから、ご自身のエピソードを交え面白いお話を教えていただきました。
 長谷山さんは法制史の専門家、若い頃、中金正衡(奥平壱岐の改姓)著の「内外法制沿革略」という本を研究しています。諭吉の思想と似かよっており、興味を持ったそうです。たまたま歩行中、東京のお寺の告別式の看板が同じ「中金」姓であるのを見つけ、寺を訪ね調べた結果、壱岐の子孫の方に出会えました。
 「中金正衡」こと壱岐は、幕末以降、動乱の時代に数々体験しながら、明治政府の官職につき活躍、数ある書を著し、学問的素養の深さは並々ならぬものがあると高く評価しています。
 福澤の敵役として扱われがちですが、福澤は、自身が蘭学教授として江戸藩邸に呼ばれたこと、壱岐の大切な原書を写したことなど、同自伝でふれ「実を申せば壱岐よりも私の方が却って罪が深いようだ」と考え直しています。長谷山さんも「壱岐は、明治以降、慶應義塾関係者と親交を結び、福澤の思想をいち早く取り入れるなど福澤の私淑者の一人。自伝の記述から受ける印象とは違う人間像が浮かび上がる」と述べています。
 江戸時代、境遇の違いから二人の間には大きな心理的溝があったことは想像できます。明治に入り、それぞれの持ち場で活躍し互いを認め合ったのでしょう。共に封建の息苦しさを乗り越え、気概を示した先達中津人の姿が見えます。「諭吉と壱岐、両者の関係悪からず」。嬉しい話ですね。

奥平壱岐と福澤諭吉
奥平壱岐と福澤諭吉
画像提供:慶應義塾福澤研究センター

(市報なかつ令和4年1月15日号掲載)

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