公開日 2022年11月28日
1万円札の肖像画が、2年後、40年ぶりに福沢諭吉から渋沢栄一に変わります。渋沢は、埼玉県深谷市生まれ、福沢と同様、日本の近代化に大きな役割を果たした民間人です。二人のイメージは対照的で、著書は、福沢の『西洋事情』に対し、渋沢は『儒教と算盤』、また、「教育啓蒙家」対「経済人」と評されます。しかし、ともに若い時に海外渡航、「民」を尊重し経済を大切にした点は同じです。
福沢の顕彰を進める「不滅の福澤プロジェクト」の一環で深谷市を訪問。埼玉県の北部に位置し、福沢同様、渋沢の旧居と記念館があります。市長同士のラジオ対談も行いましたが、誇るべき偉人を生み出した両市には歴史的深みと強みを感じます。
城島明彦著の『福沢諭吉と渋沢栄一』を読むと、江戸から明治という急激な変革期の中で、お互いの活躍とその力量を認め合う二人の関係が紹介されています。最初の出会いは、福沢37歳、渋沢31歳の時。当時役人であった渋沢が、度量衡の改正について、西洋事情に詳しい福沢に意見を求めに行ったのです。渋沢は福沢を一風変わった人だと感じたらしい。時を経て後年、大隈重信邸で二人が将棋を打ち合う場面、福沢いわく「商売人にしては割合強い」、かたや渋沢は「へぼ学者にしては強い」と返す。何ともユーモラスな応酬、二人の個性の輝きとその仲が推察されます。深谷市のホームページによると、明治26年、福沢は、自らが発行する新聞『時事新報』の社説で、「官ではなく、実業の道を進む渋沢が模範」と、その生き方に強いエールを送っています。
「学び、実業に生かす」、「恵まれない環境でも不屈の精神で自分を磨く」、「弱者にやさしい」などが二人の共通点。ともに日本の近代化の大立役者。「我が故郷はどうなっているか」と二人が天上で話すのを聞いてみたいですね。
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深谷市連携事業で設置した郵便ポストのデザイン
(市報なかつ令和4年12月1日号掲載)