公開日 2011年10月01日
更新日 2024年03月29日
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福澤諭吉(ふくざわゆきち、1835-1901)
江戸末期から明治期の啓蒙思想家・教育者。初め蘭学、後に英学を学び、幕府使節随行として3度欧米に渡ります。慶應義塾を創設し、在野にあって、教育と著書を中心に啓蒙活動を行いました。著書「学問のすすめ」「文明論之概略」など。
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小幡篤次郎(おばたとくじろう、1842-1905)
慶應義塾塾長、貴族院議員。欧米留学し、憲法草案をはじめ諸新制度を手掛けました。終始福澤諭吉を補佐し、福澤に次いで慶應義塾社中の尊敬を集めました。
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濱野定四郎(はまのさだしろう、1845-1909)
明治期の教育者、慶應義塾塾長。福澤諭吉が中津の子弟6名を江戸の自塾に入学させたうちの一人。のちに慶應義塾の初代塾長になります。中津市学校では小幡篤次郎のあとの学校長を勤め、終生慶應義塾発展に尽力しました。
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中上川彦次郎(なかみがわひこじろう、1854-1901)
明治期の実業家。母は福澤諭吉の姉。慶應義塾で洋学を学び、中津市学校の英語教師をした後、イギリスに留学。帰国後、時事新報主筆、その後、山陽鉄道を創設し、のち三井に入り三井銀行理事を経て、三井財閥の基礎をつくり、近代化に努力しました。
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朝吹英二(あさぶきえいじ、1849-1918)
白石照山塾で学び、慶應義塾を経たのち実業界に身を投じて活躍します。鐘紡の重役となり、中上川、和田とともに福澤門下の3大実業家と言われます。
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和田豊治(わだとよじ、1861-1924)
明治・大正期の実業家、貴族院議員。村上田長の書生となり、中津市学校に通学しました。慶應義塾に学び、アメリカの甲斐商店に勤務します。帰国後、富士紡績などで活躍し、のち社長になります。郷土の中津に和田奨学資金を設けました。
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小幡英之助(おばたえいのすけ、1850-1909)
明治時代の歯科医、近代歯科の先駆者で歯科医師免許第1号。慶應義塾に入り洋学を学び、のち横浜で歯科を学びます。第1回の開業医免許試験に合格し新制度における国内初の歯科医師となりました。
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白石照山(しらいししょうざん、1815-1883)
江戸末期から明治期の儒学者・教育者。福澤諭吉の師。臼杵藩儒官・中津藩儒官。野本白巌に学び、その後江戸に遊学して昌平坂学問所などで学びます。帰藩し家塾を開き子弟教育に尽くしました。
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増田宋太郎(ますだそうたろう、1849-1877)
明治期の民権家、西南の役中津隊隊長。親戚の渡辺重石丸の道生館で国学を学びました。中津で創刊された田舎新聞の初代編集長として自由民権を説きます。西南の役で中津隊を結成し、西郷軍に加わり、鹿児島の城山で戦死したと伝えられています。
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田代基徳(たしろもとのり、1839-1898)
江戸末期から明治にかけての外科医。緒方洪庵の適塾で蘭学を学びます。軍医医監、陸軍軍医学校長を務め、松本良順等と医学会の始まりである、「医学会社」を起こしました。「医事新聞」を発行して近代外科学の基礎を築きました。
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奥平昌鹿(おくだいらまさか、1744-1780)
江戸中期の中津藩主。絵画や和歌に優れ、前野良澤の蘭学研究や儒学を保護する傍ら、国学を賀茂真淵から学びます。郡村税法の法令集を編纂するなど藩政にも力を入れました。
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奥平昌高(おくだいらまさたか、1781-1855)
江戸後期中津藩主、蘭学者。薩摩藩主島津重豪の二男。中津藩主奥平昌男の養子となり、藩校進脩館を創設します。国学者渡辺重名に国学・和歌を学ぶ傍ら蘭学を学びました。中津辞書と称される「蘭語訳撰」(日蘭辞書)、「中津バスタード辞書」(蘭日辞書)を出版し、ペリー来航時に開国の意見書を幕府に提出しました。
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辛島正庵(からしましょうあん、1779-1857)
江戸後期の蘭方医。中津藩医。号は東渓。種痘の研究に努める。嘉永2年(1849)辛島正庵を筆頭に10名の医師たちが長崎で痘苗をもらい、中津で最初の種痘を行いました。
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村上玄水(むらかみげんすい、1781-1843)
江戸後期の医者、中津藩医。文政2年(1819)3月8日、藩の許可を得て、解剖を行い、この解剖の記録を、「解臓記」「解剖図」として詳細に残しました。
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大江雲澤(おおえうんたく、1822-1899)
江戸末期から明治にかけての医者。中津藩医。華岡医塾大阪分塾(合水堂)に学び、藩医の傍ら医塾を開き多くの門人を育てました。
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前野良澤(まえのりょうたく、1723-1803)
江戸中期の蘭学者、中津藩医。蘭学の開祖といわれ、杉田玄白たちと苦心の末、オランダ語の解剖書を訳して「解体新書」を著しました。
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村上田長(むらかみでんちょう、1839-1906)
明治期の医者、ジャーナリスト、教育者。現福岡県秋月に生まれ、中津の村上家の養子となります。陽明学を学び、のち大阪医学校で学びます。県内最初の本格的新聞田舎新聞を創刊。大分中学校初代校長と大分師範学校校長も兼任し、玖珠郡長も勤めました。
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村上巧兒(むらかみこうじ、1879-1963)
村上田長の四男。早稲田大学を卒業後、新聞、デパート・電力会社と転職し、各方面で活躍。西日本の産業・経済界に多大な貢献をしました。
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磯村豊太郎(いそむらとよたろう、1868-1939)
明治期から昭和期の実業家、貴族院議員。慶應義塾に学び、三井物産ロンドン支店長、北海道炭坑汽船社長ほか要職を歴任します。中津の公会堂建築のため5万円を寄付し、公会堂は昭和2年に完成しました。
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田原淳(たはらすなお、1873-1952)
明治期から昭和期の医学者、心臓病理学の権威。安岐町に生まれ、中津の田原家の養子となります。東京大学卒業後、私費でドイツへ留学。哺乳類の心臓筋肉について研究し、田原結節の発見により学士院恩賜賞を授与されました。
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水島銕也(みずしまてつや、1864-1928)
明治・大正期の教育者。神戸商業講習所・東京外国語学校附属高等商業学校で学び、卒業後教師となります。神戸高商(現神戸大学)の創立委員となり、初代校長を勤め初期の商業教育に尽力しました。
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廣池千九郎(ひろいけちくろう、1866-1938)
明治期から昭和期の教育者、法学博士、麗澤大学・モラロジー研究所の創設者。中津市学校で学び、26才で「中津歴史」を著します。「古事類苑」の主席編集者。モラロジー(道徳科学)の研究に取り組みました。
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宇都宮仙太郎(うつのみやせんたろう、1866-1940)
明治期から昭和期の北海道酪農の指導者、日本酪農の父、雪印乳業の創設者の一人。北海道に渡り、農商務省真駒内牧場に牧夫として勤めたのち、渡米して各州牧場やウイスコンシン大学などで酪農技術を体得しました。
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渡邊重名(わたなべしげな、1759-1830)
中津藩国学者、古表神社(福岡県築上郡吉富町)宮司。
京都で儒学を学びます。また、荒木田久老や本居宣長に国学を学び、本居門下十哲の一人に教えられました。帰郷後、藩校進脩館の教授も勤めています。
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雲華上人(うんげしょうにん、1773-1850)
江戸後期の僧侶。豊後竹田の満徳寺に生まれ、京の東本願寺に学び、学頭にまでなります。懇望されて中津の正行寺の法灯を継ぎました。書画にも優れ、京では田能村竹田ほかの文人と幅広く交友しています。
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島田虎之助(しまだとらのすけ、1814-1852)
江戸後期の剣術家。「男子の本懐剣にあり」と九州各地を武者修行。のち江戸に出て「剣は心なり」の極意を悟ります。男谷信友の道場で免許皆伝を受け、浅草に真影流の道場を開きました。勝海舟は門弟の一人。