公開日 2023年10月19日
更新日 2023年10月20日
みなさんが食べているお米。そのお米になる稲を田んぼで育てるには水が欠かせません。
それでは、その水はどのようにして田んぼに送り届けられているのでしょうか。
このページでは「荒瀬(あらせ)水路」とその歴史を紹介します。
荒瀬水路とは
中津市本耶馬渓町樋田(ひだ)地区にある取り入れ口から水を取って水路へ流し、主に三光地域の一部と中津地域の東側の田んぼへ水を送り届けている水路のことです。
それでは、なぜわざわざ田んぼから遠い本耶馬渓地域から水を取っているのでしょうか。
その答えは中津市の地形にあります。荒瀬水路の水が送られる中津地域の東側は、中津地域の西側に比べて高さが高く、丘のようになっています。
高さの低い中津地域の西側からは、高さの高い東側へは水を流すことができません。
ポンプの無い昔の時代は、川の高さの高い場所から水を取って水路へ流すしか方法がなかったのです。
荒瀬水路の歴史
荒瀬水路の歴史は古く、江戸時代にまでさかのぼります。
1683年 小笠原長胤(おがさわらながたね)(当時15歳)が中津城藩主(はんしゅ)に就任(しゅうにん)。
1685年 荒瀬水路の工事を決定。
1686年 工事を開始。
1689年 主となる水路(幹線(かんせん))が完成し、一部通水(つうすい)開始。
1698年 荒瀬水路の全体が完成。
完成した水路は約15キロメートル(そのうちトンネル区間は約2キロメートル)に及び、約1,000ヘクタールの田んぼに水を引くことができました。
完成から300年以上経った現在でも、その水路は農業用水路として利用されています。
※小笠原長胤について詳しくは大分県のWEBページ(農業水利偉人伝(小笠原長胤)を発刊しました)をご覧ください。
荒瀬水路の様子
頭首工(とうしゅこう)
川から水を取り入れる部分です。川の一部をせき止めて水位を上げて、水路へ水を流し込んでいます。取り込まれた水は水路を流れ、昭和新田(しょうわしんでん)のダイハツ九州近くの田んぼまで送り届けられています。
- 頭首工
- 水の取り入れ口
改修工事のときに、後ろにある耶馬渓橋(通称:オランダ橋)と同じような石積みのような見た目になりました。
※令和5年7月の豪雨災害(ごううさいがい)により、頭首工の上部に枝木が引っ掛かり、耶馬渓橋の欄干(らんかん)は流されています。
間歩(まぶ)
水路がトンネルになっている部分です。江戸時代の工事では、いくつもの岩山(いわやま)を人力でくり抜かなければならない難しい工事でした。山国町草本(くさもと)の金山(きんざん)での工事技術が用いられました。
- 川平間歩の内部
- 川平隧道の入口
昔、使用されていた川平(かわべら)間歩の中です。落石により使用できなくなるまで、300年近く使用されました。
現在は川平隧道(ずいどう)という新しいトンネルが整備されています。
分水(ぶんすい)
幹線から支線へ、支線からさらに分かれる枝線(えだせん)へ水を分ける部分です。水をどれくらいの量をどこへ分けるか、堰板(せきいた)を動かして調節しています。荒瀬水路には主な分水が13ヶ所あります。
- 3方面に水を分けるところ
- 3方面へ流れていく水路
永添(ながそえ)にある三ツ山(みつやま)分水です。3方面それぞれへ向かう水路に水を分けています。
※3方面はそれぞれ、上池永(かみいけなが)・下池永(しもいけなが)方面、合馬(おうま)・全徳(ぜんとく)方面、上如水(かみじょすい)方面です。
ため池
荒瀬水路ではため池が水路の一部となっている箇所があります。薦(こも)神社・大貞(おおさだ)公園周辺にあるいくつかのため池も荒瀬水路の支線の一部です。
- 御澄池(みすみいけ)全体
- 池の中の鳥居(とりい)
大貞にある薦神社の御神体(ごしんたい)とされる御澄池(みすみいけ)です。多くの動植物が生息しています。
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